2018年1月20日土曜日

2018/1/20 アーサナ練習の目的とは

今年はちゃんとなるべくログとして日記を書いていこうと。

まぁ、もう何が進歩したとか、何ができないとかではなく、毎日の練習の中でのちょっとしたことなんかが大事だったりするわけです。


最近、辿り着いた結論として、カポタの目的は踵を掴むことではない←当たり前w
ひいてはアシュタンガの目的はアーサナではない。アーサナは手段に過ぎない。
このことは師匠が常日頃から言ってることなんだけど、それがやっと実感できたというか。
あー、こういうことなのかなあって。

今年になってから、カポタも他のアーサナも同じ立ち位置なんだと今更ながら痛感したことで、ひとつひとつのアーサナに対して、今まで以上にきちんと向き合うようになれたかな。
ひとつひとつの動きを一生懸命やるというか。全てに同じような気持ちを注いで、できることもできないことも同じように集中してやるというか。
例えば、前屈するときにもただ前屈するんじゃなくて、まずは股関節からしっかり伸びて空間を作るとか、膝を意識して伸ばすとか、おでこではなく顎を脛につけられるようにするとか。
毎日同じことをやるのではなく、できることのさらに上を努力していくように。
自分の中で昨日よりも1mmでも進めるように。



そしたらなんか思ったこと。
朝練の時間そのものが大事なんだと。うーん、これまたうまく言えないけど、人によってかかる時間は違うけど、私の場合は今のところはシャバーサナまで入れて2時間かな?
その2時間を過ごすこと自体が大事であって、何をしていようが、どんなアーサナをしていようが、2時間の間に無心に自分の心を注ぐことが目的で、そのために、無心になるためのアーサナ練習であると。

これもね。師匠が口を酸っぱくして言ってることでw
黙って座って瞑想できるんならいいけど、人はそうすぐには無心になれないからねと。
めちゃ今更なんだけど、やはり今更わかったわけです。
だからどんなアーサナ練習をしているかではなくて、どんな気持ちで向き合っているかが問題で、どんなことをやっていてもいいんだな。
アシュタンガ的には当たり前なことなんだけど、なかなかそれがよくわからなかった。
極端なことを言えば、無心に瞑想状態になれるなら、2時間の間、ずっと太陽礼拝でもいい。
ただ、人は気が散るものだし、飽きるものだから、アシュタンガのシステムになっているというだけで。


そう言いつつも、できたできないもグルグルと存在してはいくんだろうけどね。

そんなことを徒然に思った1月の練習でした。







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